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<title>目指せ　横浜博士に挑戦</title>
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<description>毎月１回　横浜の主要観光コースを巡り６ヶ月後に横浜博士の称号を受ける。</description>
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<title>横浜博士になろう（冬版６）</title>
<description> 「戦後のまちづくり」平成20年2月15日（金）0930～1230　会場：横浜市開港記念会館田村プランナーの紹介 プランナーは1926年（大正15年）生まれ、東大卒。諸官庁勤務後、民間で都市計画のコンサルタントを開業。横浜市の「戦後のまちづくり」に種々提案し、その後横浜市企画調整局長として関係官庁と交渉の上、提案事項を実行した。その後法政大学で教鞭を執り、現在は同大学名誉教授である。著書に岩波新書「まちづくりの発想」「
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<![CDATA[ <u><span style="font-size:large;">「戦後のまちづくり」</span></u><br /><br />平成20年2月15日（金）0930～1230　会場：横浜市開港記念会館<br /><br />田村プランナーの紹介<br /> プランナーは1926年（大正15年）生まれ、東大卒。諸官庁勤務後、民間で都市計画のコンサルタントを開業。横浜市の「戦後のまちづくり」に種々提案し、その後横浜市企画調整局長として関係官庁と交渉の上、提案事項を実行した。その後法政大学で教鞭を執り、現在は同大学名誉教授である。著書に岩波新書「まちづくりの発想」「まちづくりの実践」「まちづくりの経過」中公新書「都市横浜をつくる」「田村明のたたかい」等がある。<br />  <br />A）田村プランナーの講義<br />予め配布されたプランナー作成のresumeに従い、①戦後の横浜、②飛鳥田市長の登場、③6大事業の提案と推進、④土地利用の混乱と収拾、⑤個性的で魅力ある横浜へとの5段階に分け、都市プランナーとして、横浜の「戦後のまちづくり」の為に提案し実施した政策に就いて、特に②③④を中心に熱の入った講義が行なわれた。その概要は下記の通りである。<br /><br />1)戦後の横浜<br />  戦災、敗戦に拠る占領軍支配、その後の乱開発により、1960年代（昭和30/40年代）の横浜は極めて憂慮すべき状況であった。即ち<br />1戦災・敗戦<br />横浜大空襲（1945昭和20年5月27日―海軍記念日）により横浜の都市部は殆ど焼失・破壊された。敗戦（同年8月15日）直後、8月27日にマッカーサー占領軍総司令官が厚木経由横浜に到着し、Hotel New Grandを総司令部とした。総司令部は9月上旬、東京に移転した。<br />②基地の町<br />第８軍司令部が横浜税関に設置され、アイケルバーカー中将が司令官に着任して、占領政策が実施された。米軍は横浜の港湾機能を重視して、旧日本軍兵舎の他、市街地も接収し、関内地区にはカマボコ兵舎（カマボコ型テント張りの架設兵舎）が立ち並んだ。長期に亘って占領された沖縄は別として、内地で市街地を接収された唯一の基地の町となった。<br />③都心部接収解除<br />　都心部接取が解除されたのはヤット1955（昭和30年）で、1956（昭和31年）の経済白書で「もはや戦後ではない」と言われ、他の都市では復興建設が始まっていたのに、横浜は非常に立ち遅れていた。<br />4都心機能の喪失<br />然し主要埠頭は依然として接収解除されず港湾機能は麻痺した儘であり、貿易も総司令部・通産省（当時商工省）の認可が必要であった為商社の東京集中など経済構造の変化に拠り、戦前の貿易港としての都心機能を喪失し、経済活動は不振を極めた。（その為、諸外国の領事館も東京に移転した。）<br />⑤近郊地の乱開発<br />土地開発関係の法律不備に加えて神奈川県・横浜市の無策に拠り、近郊地が乱開発され、インフラ関係緊急諸問題が山積した。即ち、がけ崩れ・河川溢水・道路・水源・ごみ・学校・公園などへの緊急処置対策であった。<br /><br />2)飛鳥田市長の登場<br /> この混乱期（1963昭和38年4月）に当時政令都市での最年少の市長として元社会党代議士の飛鳥田市長が登場し、画期的な下記政策を宣言した。<br />①市民参加の市政<br />  市政は市民の声を聞いて行なうのが本筋だと、直接民主主義を唱え、一万人市民集会を開催したが、現行の代議員政治を否定するものであると市議会はおろか国から大反対された。現在は当たり前になっている市民参加の市政のキッカケを40年前横浜市が創ったのである。<br />2こどもを大切にする市政<br />問題山積であるが、特に違法駐車・街灯不足等で道路が問題であった。早速お買い物道路の設置など、市民特にこども・婦人を大事にする政策を掲げた。<br />③誰でも住みたくなる「まちづくり」<br />  当時市内の火力発電所からは濛々たる黒煙が上がっていた。公害防止の為、電源開発㈱に交渉しようとしても、法律を楯にそのテーブルに着こうともしない。此処で田村プランナーの出番となる。民間の都市計画コンサルタントを経営していた所（当時事務所は東京の銀座）に、本件の処理を横浜市から委託されて交渉に臨んだ。唯一存在していた煤煙防止法を基に、「市民の為の何が必要か？」「金が無くても出来る方法は無いか？」と理屈ではない市民の声を後ろ盾として、役人・関係者と共に模索して公害防止協定締結に漕ぎ着けた。これが横浜方式と云われるようになり、全国に広がるキッカケを創った。市長の指示に拠りプランナンーの業務は更に乱開発の防止、都市構造の再編へと発展したのである。<br />3)6大事業の提案と推進<br />  プランナーは上記政策をコンサルタントの立場で提案していたが、その実施の為1968（昭和43年）横浜市企画調整局長として迎えられた。<br />①主体性ある市の総合的な戦略的基幹事業<br />  荒廃した横浜を復興させる都市の骨組みを作る為、権限が無くても財源がなくても「横浜の為に何が必要か？」と中央政府頼みではない、主体性のある総合的且つ戦略的基幹事業を策定したのが次の六大事業である。<br />②六大事業の提案<br />　①都心部強化（みなとみらいなど）<br />②金沢埋立<br />③港北ニュータウン<br />④高速鉄道<br />⑤基幹道路<br />⑥ベイブリッジ<br />3企画調整局の新設<br />②を企画・実行する為、総合プロデュース組織として市に企画調整局を新設した。一番苦労したのは、法律（権限）がなければしない、自分では考えないと言う役人を「横浜の為に何が必要か、どうしたら出来るか、どちらのほうが良いか、と自分で、一市民として考える」民間では当たり前の思考方法に変える教育であった。<br />④高速道路の地下化<br />  プランナーの横浜市への就任3週間前に、現在のみなとみらい・桜木町駅前　　の地下高速道路は、高架道路建設に決定していた。プランナーは直ちに美しい横浜を作る為、地下にすべきであると異を唱えた。建設省・横浜市議会も大反対したが、米軍の占領政策に拠り長期間全日本の犠牲になった横浜の個性的・魅力的な都市の建設の為と粘り強い交渉を重ねた結果、その計画を変更させて現在の地下高速道路が実現し、景観の維持が出来た。<br />4)土地利用の混乱と収拾<br />  次に取り組んだのが乱開発防止の問題である。<br />1丘陵地の乱開発<br />多摩田園都市線の開発の為、東急と乱開発防止の覚書を締結した。(1968昭和43年4月)<br />②横浜市宅地開発要綱の制定<br />  ①を基に同年8月土地利用の混乱を収拾する為、横浜市宅地開発要綱を制定した。建設省からは圧力を受けたがこれが普遍化された結果、各地に小公園・道路の拡張などが見られる様になった。<br />③新都市計画法の制定(69)<br />②の翌年建設省は乱開発防止を織り込んだ新都市計画法を制定した。<br />5)個性的で魅力のある横浜へ<br />  本日の講義の纏めとして「みなとみらい21」構想に就いて次の様な説明があった。<br />①新しい都心の創造<br />  戦前の横浜都心は関内であったが戦後横浜駅地区が目覚しく発展し、横浜の都市構造が変化した。旅館で新館、旧館と言う言葉が良く使われるが、関内・横浜駅地区がこれに当たる。両者を繋ぐ為、謂わば別館に当たる場所として「みなとみらい21地区」を想定し、三菱重工・同地所並びにJRと粘り強い話し合いの上同意を得て、1983昭和58年「みなとみらい」区画整理事業都市計画を決定し、次の事項を重視した。<br />1個性と歴史<br />　 横浜らしさの個性とその文明開化の歴史を継続の中の創造として、赤レンガ・石造ドック・汽車道・象の鼻に残した。<br />2ミナトと市民<br />臨海公園・ベイブリッヂとシンボルタワー・赤レンガパークがその触れ合いの場である。<br />3賑わいと集い<br />   会議場・展示場・美術館・音楽ホール・ショッピングセンターがその中にある。<br />4空間構成<br />ビルの高さ・吹き抜け設置などの協定を関係者間で締結し、景観保全に努力した。<br />2アーバンデザインチームの設置<br />3更なる「個性的で魅力のある横浜」実現の為、「横浜の為」を考えるアーバンデザインチームを設置した。何事も市民の声が必要である。是非横浜市の応援団になって頂きたい。<br /><br />  <br />現地研修<br />開港記念会館～横浜税関～新港埠頭～クイーンズ～ランドマーク・プラザ～桜木町駅 ]]>
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<title>横浜博士になろう（冬版５）</title>
<description> １月２５日（金）９：３０～１２：３０第５回「浅野総一郎とその事業」　講師：横浜開港史料館調査研究員　平野正裕氏場所：鶴見公会堂会議室（ＪＲ鶴見駅西口西友６階）浅野は、京浜工業地帯の生みの親であり、「九転十起の男」として、知られている。現在の経済は出口が見えない閉塞感に満ちているが、事業家として、飽くなき欲求で日本近代化の筋道を実践した彼に対する再評価の動きがある。彼について、次の碑文がすべを物語っ
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<![CDATA[ <u><span style="font-size:large;">１月２５日（金）９：３０～１２：３０</span></u><br /><br />第５回「浅野総一郎とその事業」　講師：横浜開港史料館調査研究員　平野正裕氏<br /><br />場所：鶴見公会堂会議室（ＪＲ鶴見駅西口西友６階）<br /><br />浅野は、京浜工業地帯の生みの親であり、「九転十起の男」として、知られている。現在の経済は出口が見えない閉塞感に満ちているが、事業家として、飽くなき欲求で日本近代化の筋道を実践した彼に対する再評価の動きがある。彼について、次の碑文がすべを物語っている。<br /><br /> 浅野総一郎は、富山県氷見郡薮原の地に生まれた。爾来、鶴見川崎沖、１５０万坪の埋め立てにより、一大工業地帯を創造し、日本の近代産業の黎明期を築いた。浅野の奮闘努力「九転十起」の精神を後世に残すべく、東亜建設工業の地に、創業１００周年、浅野生誕１６０年の記念として、新像をブロンズ製として、東京湾を望む地に再建した。<br /><br />幾多の挫折を経験して、夜逃げ同然で上京し、水売りをはじめ、官業払下げでセメント王への道を確保、石炭・石油に進出、更に、海運業。サンフランシスコ航路に１３，０００トンの高級大型タービン船を就航させた。<br /><br /> 鶴見臨海鉄道を創立して、埋立地の造成と貨物輸送のために、大正１５年（１９２６）に一部開通、すでに開業していた海岸電気軌道線を昭和５年（１９２５）に買収して、全線（仮鶴見～扇町）を開通して、旅客輸送も開始した。<br /><br />現地研修：鶴見駅～京浜運河～リサイクル・センター「テルム」～東亜建設。定期検査中の横浜市広報艇「はまどり」に再会。浅野総一郎ブロンズ像前で、集合写真を撮って解散した。<br /> ]]>
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<title>象の鼻プロジェクト　横浜博士になろう</title>
<description> 「象の鼻」に子象があるのをご存知でしょうか。海に向かって左側の「小突堤」を呼ぶようになりました。赤レンガパークと山下公園を結ぶ「山下臨港線プロムナード」から海を眺めると、大さん橋国際客船ターミナルのつけねから左手方向へ延びている防波堤があります。この防波堤を上から見ると象の鼻に似ていることから、通称『象の鼻』と呼んでいます。開港150周年（平成21年）を記念する象徴的な事業として、横浜港発祥の地である
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<![CDATA[ 「象の鼻」に子象があるのをご存知でしょうか。海に向かって左側の「小突堤」を呼ぶようになりました。<br /><br />赤レンガパークと山下公園を結ぶ「山下臨港線プロムナード」から海を眺めると、大さん橋国際客船ターミナルのつけねから左手方向へ延びている防波堤があります。この防波堤を上から見ると象の鼻に似ていることから、通称『象の鼻』と呼んでいます。<br /><br />開港150周年（平成21年）を記念する象徴的な事業として、横浜港発祥の地である象の鼻地区を横浜の歴史と未来をつなぐ象徴的空間として再整備します。同時に同地区を中心としたエリア一帯を、横浜を代表する国際的な文化観光交流ゾーンの一つとして、またナショナルアートパーク構想の拠点地区として、創造的な機能の集積を図ることとします。<br /><br />資料：横浜市　錦絵：　開港当時の「象の鼻」 <br /><br /> ]]>
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<dc:subject>横浜限定</dc:subject>
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<title>横浜博士になろう（冬版４）</title>
<description> http://jp.youtube.com/SUNSETBAYJP ←ムービーをどうぞ 「横浜港ものがたり」日時：２０年１月１１日（金）９：３０～１２：３０　場所：横浜開港史料館講師：　横浜都市発展記念館研究員　青木祐介氏青木氏は「横浜港」について、①幕末、②明治前後，③明治後期～大正期、④震災復興期に分類して、話を進めた。 ①幕末　象の鼻横浜港の原点であるが、名称についての起源となると、定かではない。江戸時代の文献にみられるが、明治２０
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<![CDATA[ http://jp.youtube.com/SUNSETBAYJP ←ムービーをどうぞ<br /><br /> 「横浜港ものがたり」<br /><br />日時：２０年１月１１日（金）９：３０～１２：３０　場所：横浜開港史料館<br /><br />講師：　横浜都市発展記念館研究員　青木祐介氏<br /><br />青木氏は「横浜港」について、①幕末、②明治前後，③明治後期～大正期、④震災復興期に分類して、話を進めた。<br /><br /> ①幕末　象の鼻<br /><br />横浜港の原点であるが、名称についての起源となると、定かではない。江戸時代の文献にみられるが、明治２０年代に「象の鼻形」、大正時代に「象が鼻」、昭和４年に、「象の鼻護岸工事」、震災後に固有名詞として、定着した。<br /><br />設計者は、イギリス人技術者らで、上海から横浜に移った技術集団（エンジニアリング、アーキテクト）<br /><br /> ②明治前期　大桟橋・横浜ドック<br /><br />イギリス人技師パーマーによる築港計画（明治２１年），黒田清隆首相がパーマー案を採決。製鉄桟橋。北水堤、東水堤、馴導堤が含まれた。工事法についてオランダ対イギリス、内務省対外務省が対立。最終的には政治決着。明治２９年までに完成した。<br /><br />併せて、民間によるドック計画が、明治２１年、原六郎らにより提起された。明治３０年　２号ドック、　明治３２年　１号ドックが完成。最終的には～４号ドックまで完成した。<br /><br /> ③明治後期～大正期　赤レンガ倉庫<br /><br />新港埠頭の建設　→大型船が接岸できる岸壁方式の埠頭。　陸路との連絡。鉄道引込み線の敷設　現在の桜木町横の「東横浜貨物駅から新港埠頭間に敷設」<br /><br />レンガ倉庫の建設（当初計画は４棟）<br /><br />明治４４年　２号倉庫竣工、大正２年　１号倉庫竣工（震災で半分の長さに）。レンガ造りの躯体に鉄材を挿入して耐震性を得る技術を採用。<br /><br /> ④震災復興期　山下公園<br /><br />瓦礫処理から生まれた臨海公園。横浜市の復興試案の中に「海岸遊歩道」計画があった。<br /><br />現地研修：　開港広場ー山下公園ー大桟橋ー象の鼻ー横浜税関ー神奈川県庁　（自由参加：　横浜都市発展記念館で「写された横浜文明開化」、「横浜ユーラシア文化館」を見学。）<br /><br />次回の講座<br /><br />「浅野総一郎とその事業」　１月２５日（金）９：３０～１２：３０　場所：鶴見公会堂会議室<br /><br /> ]]>
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<title>横浜博士になろう（冬版３）</title>
<description> １２月２１日（金）９：３０～１２：３０「幕末の外国公館」　講師：横浜都市発展記念館研究員　斉藤　多喜夫場所：神奈川公会堂　２階会議室 ①講座：　安政５年、５港条約で「神奈川」で開港することが決まった。横浜村は、水深が深く外国船には適していた。当時、横浜よりも「神奈川」の方の知名度が高かった。例えば、成田空港よりは、「東京」の呼び名が外国からは理解されているのと同じだ。しかし、外交官は、神奈川宿が中心
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<![CDATA[ <strong><u>１２月２１日（金）９：３０～１２：３０</u></strong><br /><br />「幕末の外国公館」　講師：横浜都市発展記念館研究員　斉藤　多喜夫<br /><br />場所：神奈川公会堂　２階会議室<br /><br /> ①講座：　<br /><br />安政５年、５港条約で「神奈川」で開港することが決まった。横浜村は、水深が深く外国船には適していた。当時、横浜よりも「神奈川」の方の知名度が高かった。例えば、成田空港よりは、「東京」の呼び名が外国からは理解されているのと同じだ。しかし、外交官は、神奈川宿が中心で取引には好都合だと考えていた。<br /><br />商人たちは、横浜村の関内が整備され、商館や波止場が整備され、安心、安全だと既成事実化が進んだ。<br /><br />本日の講座は、「幕末の神奈川」ということで、「開港横浜之全図」と「東海道金川駅略図」を中心に、「幕末の外国公館」の説明だった。<br /><br /> 当時の横浜駅（現桜木町）は海を埋め立てて造成された。本覚寺のある丘と幸が谷公園のある丘とは元来ひと続きだった。明治１１年の「横浜実測図」では、鉄道用の埋立地が入り江を横切り、現在の桜木町まで続いているのがよく分かる。この丘を切り開き新橋～横浜間に鉄道が通されたのだ。権現山は削られて、台場が作られた。<br /><br />州崎神社の前には、横浜村とを３０分で結ぶ、宮の河岸・渡船場が完成。<br /><br />本覚寺：　条約に「神奈川」と記されていることから固執するアメリカ側は、神奈川宿を見下ろす高台に位置する本覚寺に領事館を設けた。<br /><br /> 関内の外国人租界で火事があったときに、日本人が献身的に消火活動を行ったのが高く評価された。一方、長崎での火事は、日本人が放火したとして、険悪化したという。<br /><br />神奈川宿よりも、横浜村は背後が平坦、天然の良港、明治政府が既に多大な投資を行っており、「神奈川宿」への移転は二重投資であると請願書に書かれていた。。<br /><br />本覚寺を含めて、現在の東神奈川から、イギリス、フランス、オランダなどの外国公館がお寺を借りる形で設けられた。ヘボンは安政６年に上海から蒸気船カルタゴ号で到着。成仏寺を宿舎とした。<br /><br /> ②ガイドウオーク：　１１：００～１２：３０（横浜駅西口解散）<br /><br />成仏寺（ヘボン仮宿舎）ー慶運寺（フランス領事館）ー浄瀧寺（イギリス領事館）ー宗興寺（アメリカ人宣教師）ー甚行寺（アメリカ、フランス人商人）ー本覚寺（アメリカ領事館）。<br /><br />次回：　「横浜港ものがたり」　20年1月11日（金）　０９：３０～１２：３０　横浜開港史料館<br /> ]]>
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<title>横浜博士になろう（冬版２）</title>
<description> １２月７日（金）９：３０～１２：３０第２回　東海道・保土ヶ谷宿　中世～幕末～近代～現代の奇跡「よこはま」場所：　保土ヶ谷公会堂１号会議室・保土ヶ谷歩き講座：横浜開港史料館調査研究員　西川武臣 江戸から八里九町（３４ｋｍ）、やや早いが旅の一日目であった。手前が「神奈川宿」、次が武州から相州に入るには、街道の難所、険しい権太坂を越えねばならず、旅人は一休みした。そこで「宿場」は大変な賑わいであった。貨
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<![CDATA[ <u><strong>１２月７日（金）９：３０～１２：３０</strong></u><br /><br />第２回　東海道・保土ヶ谷宿　中世～幕末～近代～現代の奇跡「よこはま」<br /><br />場所：　保土ヶ谷公会堂１号会議室・保土ヶ谷歩き<br /><br />講座：横浜開港史料館調査研究員　西川武臣<br /><br /> 江戸から八里九町（３４ｋｍ）、やや早いが旅の一日目であった。手前が「神奈川宿」、次が武州から相州に入るには、街道の難所、険しい権太坂を越えねばならず、旅人は一休みした。そこで「宿場」は大変な賑わいであった。貨幣経済以前の江戸時代は、お米の生産力で表し、「２２２０石」つまり、年産３３３トンであった。保土ヶ谷には２９２８名が住み本陣、３脇本陣、旅籠が６７軒あった。<br /><br /> 年貢米は神奈川で海船に乗せ換えて江戸に運んだ。金沢・浦賀、八王子、円海山方面への分岐点でもあった。東海道が出来たのは、当初、お役人や大名が使用する為で、本陣は農家の身分であったが、大名やお役人の宿として提供、名主として名誉なことであった。しかし経営は苦しく、旅籠や御茶屋を兼営して、やりくりしていた。江戸時代後期になると旅が盛んになり、金沢ー鎌倉ー江ノ島周遊２泊３日の旅が行われた。<br /><br /> 横浜開港前後の保土ヶ谷。宿場の中で一番大きかった本陣は、代々苅部家がつとめた。　安政６年、横浜が開港され、幕府は、全国各地に横浜で商売が出来ると公示。近くの町場から保土ヶ谷や神奈川宿に各職種の商人が移住してきた。燈明や暖房用に水油（＝菜種油、ゴマ油）が繁盛した。<br /><br /> 苅部家は、惣年寄（現市長）として、石川家や石井家と共に、横浜行政システムの基礎を作り上げたのだ。<br /><br />街歩き：　１１：００～１２：３０　帷子川ー横浜ビジネスパークー神明社ー香象寺ー助郷会所跡ー問屋場跡ー高札場跡ー金沢横丁の石碑ー本陣跡ー脇本陣跡ー旅籠本金子跡<br /><br />次回（第３回）は、１２/２１（金）「幕末の外国公館」　場所：神奈川公会堂　９：３０～１２：３０<br /> ]]>
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<title>横浜博士になろう（第３回）始まる</title>
<description> １１月３０日（金）９：３０～１２：００場所：県立金沢文庫会議室　テーマ：「中世の金沢」　講師：金沢文庫学芸課長　西岡芳文氏。街歩き：　１１：００～１２：００　称名寺金堂～庭園～金沢文庫見学中世の横浜は武蔵国で、金沢は相模国に含まれていた。当時の金沢は六浦の一部で、鎌倉への物資供給地として最重視されていた。朝比奈切り通しは、当時関所があり、上総での騒乱には朝比奈を経て東征、食料は上総、下野から水運を
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<![CDATA[ <a href="http://blog-imgs-22.fc2.com/p/r/i/princetown/P1010032.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-22.fc2.com/p/r/i/princetown/P1010032s.jpg" alt="syomyoji" border="0" /></a><br clear="all" /><u>１１月３０日（金）９：３０～１２：００</u><br /><br />場所：県立金沢文庫会議室　テーマ：「中世の金沢」　講師：金沢文庫学芸課長　西岡芳文氏。<br /><br />街歩き：　１１：００～１２：００　称名寺金堂～庭園～金沢文庫見学<br /><br />中世の横浜は武蔵国で、金沢は相模国に含まれていた。当時の金沢は六浦の一部で、鎌倉への物資供給地として最重視されていた。朝比奈切り通しは、当時関所があり、上総での騒乱には朝比奈を経て東征、食料は上総、下野から水運を利用して、六浦に集積された。<br /><br /> 当時称名寺の近くまで海が迫り、金沢文庫は、今から７００年前に北条実時が建立、中国や日本の書物と、仕事で使う書類や記録が収められていた。<br /><br />江戸時代に入ると、観光コースとして大山、江ノ島、鎌倉、金沢の周遊が定着。安藤広重の八景画が刺激して、観光客が増加した。<br /><br /> 金堂では特段の配慮によりご本尊、弥勒観音菩薩を近くで拝むことが出来、釈迦堂、サクラ通りを経て、北条実時の墓所を詣でる。仁王門～阿字ヶ池～貞顕、顕時の墓所を訪ねた。県立金沢文庫では「鎌倉北条氏の興亡」特別展が開催されていた。<br /><br />次回　１２/７　保土ヶ谷公会堂　９：３０～１２：００　「東海道・保土ヶ谷宿」<br /> ]]>
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<title>桟橋と埠頭の違い</title>
<description> 桟橋（さんばし）とは、係留施設の一つ。船舶が着岸するために陸域部から水上へ向けて作った橋状の係留施設である。広義には浮桟橋（ポンツーン:Pontoon）も桟橋に含むことがある。桟橋と埠頭（岸壁・物揚場）との違いは構造と形状にある。構造面を見ると、岸壁・物揚場が埋め立てやコンクリートにより海底まで埋められている物を指すのに対して、桟橋は支柱の上に橋上部を設置したものをいう。形状面を見ると、岸壁・物揚場は陸域
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<![CDATA[ 桟橋（さんばし）とは、係留施設の一つ。船舶が着岸するために陸域部から水上へ向けて作った橋状の係留施設である。広義には浮桟橋（ポンツーン:Pontoon）も桟橋に含むことがある。<br /><br /><br />桟橋と埠頭（岸壁・物揚場）との違いは構造と形状にある。構造面を見ると、岸壁・物揚場が埋め立てやコンクリートにより海底まで埋められている物を指すのに対して、桟橋は支柱の上に橋上部を設置したものをいう。形状面を見ると、岸壁・物揚場は陸域に沿った形状をしているのに対し、桟橋は陸域から水域へ突き出るような形状をしている。<br />桟橋の支柱には、木製杭・鋼管杭・鉄筋コンクリート杭・筒柱・ケーソン橋脚・矢板セル橋脚などが使用される。支柱の上には桁（トラス）が渡され、さらに桁の上には床板やコンクリート地盤などが設置される。桟橋は軽量なため、地盤が軟弱な場合でも建設可能である。また、船舶が発着しやすいという利点も持つ。欠点には、船舶の発着岸時の衝撃に弱いことなどが挙げられる。<br /> ]]>
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<title>横浜港に高さ１５０ｍの大噴水計画</title>
<description> 横浜港振興協会（横浜市中区海岸通1）は横浜港に高さ150メートルの噴き上げ能力を持つ巨大噴水「横浜港大噴水」の建設案を横浜市に提出、現在、官民で事業計画を検討している。　同提案は3月20日に、2009年の開港150周年記念事業として横浜市に対して提案されたもので、2009年6月竣工オープンを目指している。完成すれば山形県にある「月山湖大噴水」の112メートルを抜き、日本一の噴水となるという。　提案では、建設予定地は横浜
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<![CDATA[ 横浜港振興協会（横浜市中区海岸通1）は横浜港に高さ150メートルの噴き上げ能力を持つ巨大噴水「横浜港大噴水」の建設案を横浜市に提出、現在、官民で事業計画を検討している。<br /><br />　同提案は3月20日に、2009年の開港150周年記念事業として横浜市に対して提案されたもので、2009年6月竣工オープンを目指している。完成すれば山形県にある「月山湖大噴水」の112メートルを抜き、日本一の噴水となるという。<br /><br />　提案では、建設予定地は横浜港の入り口にあたる中防波堤近くで、山下公園や大さん橋からも一望できる位置。噴水は、海水をろ過して噴き上げる仕組みで、客船入出港時の歓迎放水、夜間ライトアップの実施などが計画されている。噴水による海水の攪拌で、プランクトンの増殖も抑制できるという。<br /><br />　1896年に横浜港の港口の水堤先端に設置され、市民に親しまれていた赤と白の無人灯台のうち白灯台は1963年に山下埠頭建設の際に撤去されていたが、建設予定地が赤灯台に近いことから、併せて白灯台を復元し、紅白の灯台の復活を図るプランも盛り込まれている。<br /> ]]>
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<title>横浜村の古地図</title>
<description> 横浜御開地（おんかいち）明細之図［安政６年（1859） 　この図は横浜が開港された（安政6年6月2日）当時の状況をよく表わしている。図の左下に「鳳堂高島計之」と記されているが、その内容は岸壁義光編横浜の絵地図（1989有隣堂刊）その他に掲載された「一玉斎　神奈川港御貿易場御開地御役屋敷並町々寺院社寺ニ至ル迄明細大絵図にあらわす安政6年」と題された図と一致する。ところで、後者の冒頭に「神奈川港」とあるのは、横浜
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<![CDATA[ 横浜御開地（おんかいち）明細之図［安政６年（1859） <br />　この図は横浜が開港された（安政6年6月2日）当時の状況をよく表わしている。図の左下に「鳳堂高島計之」と記されているが、その内容は岸壁義光編横浜の絵地図（1989有隣堂刊）その他に掲載された「一玉斎　神奈川港御貿易場御開地御役屋敷並町々寺院社寺ニ至ル迄明細大絵図にあらわす安政6年」と題された図と一致する。ところで、後者の冒頭に「神奈川港」とあるのは、横浜村に設けられた港を「神奈川」の一部と称した当時の幕府の苦肉の策の一端からであり、図の下縁に神奈川宿を入れて「神奈川と横浜」の一帯化を表現している。<br />　さて、この図の中央部に弁天堂とその周辺の林相、堂前の池が画かれ、横浜村の中心部を表わす。弁天堂の前を西から東へ弁天通りが走り、これは現在、町名として残っている。弁天堂の裏手に先が二つに割れた砂州があり、これは嘉永6年（1853）に来日したペリーが残した日本最初の海図にも明記され、横浜村の洲干湊（しゅうかんのみなと）の名残りである。<br />　江戸湾に面した海岸に二本の突堤がならび、波止場を表わしている。東の突堤は外国貿易に、西の突堤は国・u椏煢ﾝ物に利用された。突堤の背後に御運上所と異人屋敷が並び、その背後に御番所と御役屋敷があって、港務を司っていた。<br />　先に見た弁天通りと平行して本町通りがあり、ここに江戸から商人を移住させ、日本人町が先ず造られたのである。日本人街区の背後は横浜村以来の太田屋新田が残り、その中心部に異国人遊興地としての「遊女屋場所」が造成されている。<br />　古くからの横浜村の村民は南西に広がる本牧台地のふもとに移住させられ、弁天堂近くにあった増徳院も本牧台地上に移っている。<br />　東海道の幹線から横浜港へは神奈川宿から、芝生・戸部を経て吉田新田から吉田橋を渡って横浜村に入った。これが「横浜道」であり増加する日本人の取締に当たったのが、戸部村の御奉行であった。 <br /><br /><a href="http://blog-imgs-22.fc2.com/p/r/i/princetown/20070930220222.gif" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-22.fc2.com/p/r/i/princetown/20070930220222.gif" alt="yokohama mura" border="0"></a><br clear="all"><br /> ]]>
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<title>スリランカのランドマーク・タワー</title>
<description> スリランカ・コロンボのランドマーク・タワーは１２階建てのビルです。建蔽率が低く、木を大事にする国民性で、「ベリー・ナイス」と好評だ。モダンな建物で、１～４階が商業施設、５階以上が集合住宅です。
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<![CDATA[ スリランカ・コロンボのランドマーク・タワーは１２階建てのビルです。建蔽率が低く、木を大事にする国民性で、「ベリー・ナイス」と好評だ。モダンな建物で、１～４階が商業施設、５階以上が集合住宅です。<br /> ]]>
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<title>マリンタワー改装計画発表</title>
<description> 横浜市は8月27日、2009年春にリニューアルオープンする「マリンタワー」（横浜市中区山下町）の改装方針を明らかにした。　市と運営事業者である不動産売買・賃貸物件仲介業のリスト（中区羽衣町）は同日、都市美対策審議会を行い、リニューアル計画案を検討した。　　外観計画検討案は、「新しさと懐かしさ」をコンセプトに山下公園通り側はガラス張りで開放感を演出して「新しい顔」を表現、水町通り側は既設を保存して「懐かし
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<![CDATA[ 横浜市は8月27日、2009年春にリニューアルオープンする「マリンタワー」（横浜市中区山下町）の改装方針を明らかにした。<br /><br />　市と運営事業者である不動産売買・賃貸物件仲介業のリスト（中区羽衣町）は同日、都市美対策審議会を行い、リニューアル計画案を検討した。<br />　<br />　外観計画検討案は、「新しさと懐かしさ」をコンセプトに山下公園通り側はガラス張りで開放感を演出して「新しい顔」を表現、水町通り側は既設を保存して「懐かしい顔」を表すという内容。フロアコンセプトは、1階＝「街と市民とのコミュニケーションゾーン」、2階と展望台＝「観光交流ゾーン」、3階＝「文化交流ゾーン」、4階＝「エンターテインメントゾーン」、広場＝「市民の憩いの場の創出」。計画案ではFMヨコハマのサテライトスタジオや飲食・物販店舗、文化イベントホールなどを設けるとし、1～4階に新たにエレベーターを設置する予定。総事業費は約31億円。<br />　<br />　高さ106メートルの「マリンタワー」は、1961年開港100周年記念事業として「横浜らしいモニュメント」を作ろうと市民からの発意により建設された。開業以来、横浜のシンボルとして親しまれてきたが、入場者数の減少などを理由に昨年12月に運営会社が営業を終了。その後、開港150周年記念事業の一環として市が取得している。<br />　<br /> ]]>
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<title>巨大月餅　直径１ｍ</title>
<description> ◆ 中華街に150個分の巨大月餅－中秋節に合わせホテルが企画http://www.hamakei.com/headline/2635/　ローズホテル横浜1階ロビー（横浜市中区山下町）で8月31日から、中華料理「重慶飯店」が作製した日本最大の「月餅」を展示している。同企画は、日本の十五夜にあたる行事で、中国で月餅を食べる風習がある中秋節にあわせて行われるもので、今年で13回目を迎える。「重慶飯店」の工場で作られた巨大月餅は、直径1メートル、約32キロ
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<![CDATA[ ◆ 中華街に150個分の巨大月餅－中秋節に合わせホテルが企画<br />http://www.hamakei.com/headline/2635/<br />　ローズホテル横浜1階ロビー（横浜市中区山下町）で8月31日から、中華料理「重慶飯店」が作製した日本最大の「月餅」を展示している。同企画は、日本の十五夜にあたる行事で、中国で月餅を食べる風習がある中秋節にあわせて行われるもので、今年で13回目を迎える。「重慶飯店」の工場で作られた巨大月餅は、直径1メートル、約32キロ、約150個分に相当。中には黒あんと満月に見立てたアヒルの塩漬け黄身が500個入っている。……… ]]>
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<title>新橋ー神戸間開業</title>
<description> 新橋～神戸間全通まで1872年（明治5年）6月12日（太陽暦（グレゴリオ暦）・この年12月まで日本は旧暦（太陰太陽暦）を採用していて、それに従うと5月7日） - 品川～横浜間（14M57C78L≒23.69km）が旅客線として仮開業。品川駅、*横浜駅（初代、現在の桜木町駅）開業。当時は無停車で1日2往復というものであった。所要時間は35分。 7月10日（6月5日）- 川崎駅、神奈川駅が開業。 10月15日（9月12日）- 新橋～品川間（3M17C52L≒5.18km
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<![CDATA[ 新橋～神戸間全通まで<br />1872年（明治5年）6月12日（太陽暦（グレゴリオ暦）・この年12月まで日本は旧暦（太陰太陽暦）を採用していて、それに従うと5月7日） - 品川～横浜間（14M57C78L≒23.69km）が旅客線として仮開業。品川駅、*横浜駅（初代、現在の桜木町駅）開業。当時は無停車で1日2往復というものであった。所要時間は35分。 <br />7月10日（6月5日）- 川崎駅、神奈川駅が開業。 <br />10月15日（9月12日）- 新橋～品川間（3M17C52L≒5.18km）が延伸開業し、新橋～横浜間（17M75C30L≒28.87km）が正式開業。新橋駅（後の汐留駅）、鶴見駅開業。 <br />1873年（明治6年）9月15日 - 新橋～横浜間で貨物営業を開始。日本初の貨物列車の運行日。 <br />1874年（明治7年）5月11日 - 大阪～神戸間（20M27C56L≒32.74km）が旅客線として開業（三ノ宮～神戸間複線）。大阪駅、西ノ宮駅（現在の西宮駅）、三ノ宮駅、神戸駅開業。 <br />6月1日 - 神崎駅（現在の尼崎駅）、住吉駅開業。 <br />12月1日 - 大阪～神戸間で貨物営業を開始。 <br />1875年（明治8年）5月1日 - 支線（安治川支線）大阪～安治川間（1M60C≒2.82km）が開業。安治川駅開業。 <br />1876年（明治9年）6月12日 - 大森駅開業。 <br />7月26日 - 向日町～大阪間（22M56C57L≒36.54km）が旅客線として延伸開業。向日町駅、高槻駅開業。 <br />8月9日 - 山崎駅、茨木駅、吹田駅開業。 <br />9月5日 - 向日町～大宮通仮間（3M47C≒5.77km）が延伸開業。大宮通仮停車場（現在の梅小路駅付近）開業。 <br />12月1日 - 新橋～品川間複線化。同区間に田町仮停車場を開設。 <br />1877年（明治10年）2月6日 - 京都～大宮通仮間（40C11L≒0.81km）が延伸開業。大宮通仮停車場廃止、京都駅開業。この日の前日、神戸～京都間全通を記念して明治天皇を迎えて京都駅で鉄道開通式を実施。 <br />9月1日 - 田町仮停車場廃止。 <br />11月20日 - 京都～大阪間で貨物営業を開始。 <br />12月1日 - 安治川支線 大阪～安治川間 (1M60C) 廃止。安治川駅廃止。 <br />1879年（明治12年）3月1日 - 大森～川崎間複線化。 <br />8月18日 - 大谷～京都間（8M10C81L≒13.09km）が延伸開業。*稲荷駅、山科駅（初代）、大谷駅が開業。現在奈良線となっている路線の一部を経由。 <br />11月1日 - 川崎～鶴見間複線化。 <br />1880年（明治13年）7月15日 - 逢坂山トンネル開通により、大津～大谷間（3M13C96L≒5.11km）が延伸開業（馬場～大谷間は 1M70C82L≒3.03km）し、大津～神戸間全通。馬場駅（現在の膳所駅）、石場駅、大津駅（初代、後の浜大津駅）開業。この京都～大津間は逢坂山が途中にあり、現在のルートより迂回するルートであった。 <br />11月14日 - 品川～大森間複線化。 <br />1881年（明治14年）5月7日 - 鶴見～横浜間複線化。これにより新橋～横浜間複線化完成。 <br />1882年（明治15年）5月1日 - 太湖汽船が琵琶湖上の長浜～大津間に鉄道連絡船を就航。 <br />1883年（明治16年）5月1日 - 関ヶ原～長浜間（14M32C65L≒23.19km）が開業。この区間は伊吹山が途中にあり、これも現在のルートとは異なる。関ヶ原駅、春照駅開業。長浜駅で官設鉄道金ヶ崎駅方面に接続。 <br />1884年（明治17年）5月25日 - 大垣～関ヶ原間（8M35C32L≒13.59km）が延伸開業。大垣駅、垂井駅開業。 <br />1885年（明治18年）3月16日 - 上阪駅開業。 <br />12月10日 - 上阪駅廃止。 <br />1886年（明治19年）3月1日 - 武豊～熱田間（20M49C38L≒33.18km）が開業（後の大府～熱田間は7M76C20L≒12.80km）。*武豊駅、*半田駅、*亀崎駅、*緒川駅（初代）、大高駅、熱田駅開業。この路線は建設資材を武豊港から陸揚げして輸送するために設けられた。 <br />4月1日 - 熱田～清洲間（8M54C80L≒13.98km）が延伸開業。清洲駅（初代、現在の枇杷島駅）開業。 <br />5月1日 - 清洲～一ノ宮間（6M2C50L≒9.71km）が延伸開業。名護屋駅（現在の名古屋駅）、一ノ宮駅（現在の尾張一宮駅）開業。 <br />6月1日 - 一ノ宮～木曽川間（3M43C20L≒5.70km）が延伸開業。木曽川駅開業。 <br />1887年（明治20年）1月21日 - 大垣～加納間（8M72C84L≒14.34km）が延伸開業。加納駅（現在の岐阜駅）開業。 <br />4月25日 - 木曽川～加納間（4M44C78L≒7.34km）が延伸開業し、武豊～長浜間が全通。途中木曽川鉄橋の建設のため時間を要した。名護屋駅を名古屋駅に改称。 <br />7月11日 - 横浜（初代）～国府津間（30M73C80L≒49.76km）が延伸開業。程ヶ谷駅（現在の保土ヶ谷駅）、戸塚駅、藤沢駅、平塚駅、大磯駅、国府津駅開業。 <br />9月10日 - 大府駅開業。緒川駅（初代）廃止。 <br />1888年（明治21年）9月1日 - 浜松～大府間（55M44C4L≒89.40km）が延伸開業。浜松駅、馬郡駅（現在の舞阪駅）、鷲津駅、豊橋駅、御油駅（現在の愛知御津駅）、蒲郡駅、岡崎駅、刈谷駅開業。浜松～長浜間が本線、大府～武豊間が支線となる。 <br />11月1日 - 大船駅開業。 <br />12月1日 - 馬郡駅を舞坂駅に改称。 <br />12月15日 - 加納駅を岐阜駅に改称。 <br />1889年（明治22年）2月1日 - 国府津～静岡間（71M27C≒114.81km）が延伸開業。国府津駅から沼津駅までは途中現在の御殿場線を経由し箱根を避けるように路線を敷設した。*松田駅、*山北駅、*小山駅（現在の駿河小山駅）、*御殿場駅、*佐野駅（現在の裾野駅）、沼津駅、鈴川駅（現在の吉原駅）、岩淵駅（現在の富士川駅）、興津駅、江尻駅（現在の清水駅）、静岡駅開業。 <br />4月16日 - 静岡～浜松間（47M35C≒76.34km）が延伸開業。この時点で、長浜～大津間琵琶湖の水路を用いることで、関東から関西までの輸送路が一応完成。焼津駅、藤枝駅、島田駅、堀ノ内駅（現在の菊川駅）、掛川駅、袋井駅、中泉駅（現在の磐田駅）開業。 <br /> ]]>
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<title>鉄道開通にまつわるエピソード</title>
<description> 開業にまつわるエピソード最初、正式開業は重陽の節句の9月9日（同、10月11日）を予定していたが、当日は暴風雨だったため延期され、改めて9月12日に正式開業した。 また、全区間の運賃は上等が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘であったが、下等運賃でも米が5升半（約10kg）買えるほど高額なものであったという。 鉄道員には士族が多かったため、乗客への態度は横柄なものであったといわれる。 実際の建設に際しては、土木工
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<![CDATA[ <u><strong>開業にまつわるエピソード</strong></u><br /><br />最初、正式開業は重陽の節句の9月9日（同、10月11日）を予定していたが、当日は暴風雨だったため延期され、改めて9月12日に正式開業した。 <br />また、全区間の運賃は上等が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘であったが、下等運賃でも米が5升半（約10kg）買えるほど高額なものであったという。 <br />鉄道員には士族が多かったため、乗客への態度は横柄なものであったといわれる。 <br />実際の建設に際しては、土木工事は築城経験のある日本の技術が生かされたが、六郷川橋梁だけはイギリス人の指導の下に木造で架橋された。 <br />車輌は全てイギリスから輸入された。蒸気機関車10両は全て軸配置1Bのタンク機関車で5社の製品を混合使用した。その中で4両あったシャープ・スチュアート社製の機関車が最も使いやすかったと言われている。 <br />客車は全て2軸車で、上等車（定員18人）10両、中等車（定員26人）40両、緩急車8両が輸入されたが、開業前に中等車26両は定員52人の下等車に改造された。当時の客車は台車や台枠は鉄製だが壁や屋根を含む本体は木造であり、この改造は練達の日本人大工の手によって実施された。 <br />機関車を運転する機関士は外国人であった。また運転ダイヤ作成もイギリス人のW・F・ペーに一任されていた。これらの技術者は「お雇い外国人」と呼ばれ、高給を取っていた。 <br /><br />[編集] 営業成績<br />開業翌年の1873年（明治6年）の営業状況は、乗客が1日平均4347人、年間の旅客収入42万円と貨物収入2万円、そこから直接経費の23万円を引くと21万円の利益となっている。この結果「鉄道は儲かる」という認識が広まった。また旅客と貨物の比率について、鉄道側に貨物運用の準備不足もあったが、明治維新直後で近代産業が未発達な時期であり「運ぶ荷物がなかった」事も考えられる。<br /><br /> ]]>
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